2017年3月12日 望みの錨

「自活」と「自立」

友納徳治『わが魂よ、水源(みなもと)へ帰れ』(いのちのことば社)より抜粋

 人の生涯には、避けられない危機が三つあるといわれます。自立と孤独、そして死です。自立がどうして危機となるのか。それは、自活を自立と取り違えるからです。自立は、どう生きるかが問われますが、自活は、どう暮らすかが問題になるのです。

  ごくありきたりな言い方をすると、人は学校を卒業し、社会人としての仕事に就き、収入を得て生活が安定してくると、「自立した」と思いがちです。やがて結婚し、子どもが誕生して、夫婦は仕事や育児に精を出し、家を建て、社会的な役割や責任を果たしていると、まわりは、もう立派な社会人、自立した人と認めないでしょうか。どう暮らすかが優先するとなると、学歴は高いほうがよいし、人のうらやむ一流会社に入ることが望ましく、衣食住も人並以下では満足ゆきません。しかし、この地上で、どんなに栄誉栄達をきわめ、名声を得ても、それはバーチャルリアリティ(仮想現実―幻想)にすぎないものではないでしょうか。

 自活のみに終始する人生と、自活を含めた自立を選びとる人生、私たちが問われ、求められるのは、この二つの道を識別するまことの知恵でもあるのです。パウロの祈りにこうあります。「わたしは祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」(ピリピ 1・9〜10)。

 パウロは自分が何者なのか、いったいどこへ行こうとしているのかがわからない苦しみは、「牢獄」の中にいる苦難よりも重く、しのぎがたいものであることを知っていました。この苦悩から解放され、自分が何者か、どこへ向かうのかを知って生きることが、救いなのです。

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