2017年7月2日 望みの錨

人生の選択―矢内原忠雄

(1961年、東京大学教養学部、学友会主催講演記録より要約)
 学生の中に、東大に入学することをもって人生の目的と考えている人がいる。東大に入学することが人生の目的だったものだから、目的を達したとたんに勉強の意義がサッパリわからなくなってしまう。大学へ入ることは人生の手段であって目的ではない。人生は何を求めて生きるのかということを考えないと、個人の魂の空虚さはどうしても満たされないのです。自分の人生を何に捧げるか、つまりどのような人生を選ぶかという目的を設定して、そのために努力をすることによって、はじめて人生は満たされる。
 いま私はここで「どのような人生を選ぶか」と言いましたが、われわれが〈選ぶ〉といっても、そう自由には選べない。〈選ぶ〉のではなくて、われわれが〈選ばれる〉のであるという言い方をしてもよいと思う。ある家庭、ある社会、ある国、われわれなら日本、というふうにこれらの条件はもうはじめっから与えられており、きめられているわけです。
この〈選ばれた〉ということを信仰的にみると次のようになります。人生は自分の思いもしなかったようなことが起るが、これは神が自分のために選んで下さった人生なので、政治的な圧力とか、その他の力によって決められたのではない。存在と生命とを支えて下さる存在が、私自身に選んで下さった人生なのだと信ずるのであります。そこに使命感も起ってくる。感謝も起ってくる。
或る人々は、神から自由になることが、自由だという。人間が自分で一切のことを解決する、それが自由だと考える人があるが、人間が人間のことを解決しようとすると、不可解なことばかりである。病気とか、正しい人が苦しんで悪い人が勢いをもっている。なぜこんなことが起るかわからない。それでは真の自由とは何か。神以外のすべてのものから束縛されていないということが人間の自由なのであります。思わしくない心や身体や社会の状態から、解放されることが自由といえます。また、自分でこれは正しいことだと思っていることでも、もしそれを主張すると首がとぶだろうと思って言えない、ということが不自由な状態なのであります。生活のおそれから正義感を殺すということは神のお守りを信じていないからです。
 ここで神をあるとして、つまり、人間を創り、導き、守り、心に希望と平安を与えてくれるところの神が〈ある〉という人生を選ぶか、そんなものはないんだという人生を選ぶか、という二つの道が分れます。人生を意味あるものにつくり上げていこう、どういうことが起って来ても、それを使命として生涯をおくろう、という〈神あり〉と賭ける人生と〈神なし〉と賭ける人生、そのどちらを選ぶか、この賭けるという所に意志の決定があるのであります。この決断によって個人の、または国家の運命が決まるのであります。 
『人生の選択―矢内原忠雄の生涯―』(キリスト教図書出版社)

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