2018年8月19日 望みの錨

聖書に出てくる夢

 聖書に出てくる夢の記録は、神の霊すなわち聖霊と人間の魂の交流である。人間が理性と常識では理解出来ないことを、神は魂に語り掛けられて夢となって、神の啓示が行なわれている。
 昔の人々は夢を重んじ、夢と幻は同義語として使用され得る(ダニエル4:8〜10)。しかし、幻は夜間に限らず、昼間に与えられる例が少なくない(民数記24:4、マタイ17:9、使徒10:3)。そして、幻は何の備えもないところに偶発的に与えられるよりも、むしろ霊的渇望や危機的状況という一種の緊張状態を背景とする場合が多い。例えば、ベテルでのヤコブは独りで旅立つ孤独感のうちにあり(創世記28:12- ヤコブの梯子)、ヨセフは兄弟から憎まれ(創世記37:4-9)、エゼキエルやダニエルは捕囚の地にあった。ペトロは肉体的に空腹な時(使徒10:9-16)、パウロは青年期という人生の不安定な転換期(使徒9:1-6)、伝道旅行の行き詰まり(使徒16:6-10)に幻を見た。幻の意味は神の言葉と説明によって明瞭にされる。幻は、神の言葉をより鮮明に印象付ける手段なのだ。
 夢は、それによって神が人に、あること(特に未来)を告知すると理解された。聖書でも、夢によって神が御心を人に示される、という例は多くみられる。信仰者自身の見た夢の例としては、ヤコブ(創世記28:12)、ヨセフ(創世記37:5, 9)などに始まり、新約聖書ではマリアの夫ヨセフ(マタイ1:20,2:13)の例などが有名である。
 御言葉による啓示(特に、文書化したもの)がまだ量的に乏しかった時代には、夢による御心の伝達という方法の必要度も、それなりに大きかったと言えよう。しかし、新約の時代にはマリアとヨセフの例のような緊急非常事態に限られている点に注意しなければならない。まして啓示が完結した新約以後の時代に、夢によって神の示しを得るという期待は消極的でなければならない。但し、「夢など全く無意味」と断定する逆の極端も行き過ぎであろう。

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