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今週のメッセージ

2012年6月24日

「君が代」をヘブル語で読むと

 1976年、米国が建国200周年を迎えた年、コヴィナ地方の教会が連合して、350人の聖歌隊を結成、200年祭コンサートを行った。曲目は「アイ・ラブ・アメリカ」というミュージカルで、内容は、「アメリカよ、父祖の信仰に帰れ。条約や軍事力に頼らず、罪を悔い改めて神に帰れ、今は祈りの時だ」というものだった。聴衆の一人だった父は、「涙が出るほど悔しかった。アイ・ラブ・ジャパンと言える人が何人あるだろうか」と感想を母にもらしていた。
 今でも、多くのクリスチャンは、天皇制、日の丸、君が代を受け入れようとしない。日本の教会は、戦時中、国家権力に屈して、礼拝の中で「君が代」斉唱・宮城遥拝(きゅうじょうようはい)を行なった。戦後はこれを「偶像礼拝への妥協であった」として反省し、その反動から日の丸・君が代そのものに反対しているのだ。しかし、「かつて日本軍は日の丸を揚げて戦った。だから日の丸は揚げるべきではない」と言うのなら、「十字軍の歴史がある教会は、十字架をシンボルとすべきではない」、となってしまう。過去の苦い記憶と重なるからといって、日の丸を廃棄する理由にはならないのだ。むしろ、「日本への神の祝福を願って、礼拝堂に日の丸を掲げ、『君が代』を歌うということはあってもよいのではないか」とあるクリスチャンはネットで記していた。
 神社では日の丸を揚げ、お寺ではしないのは、日の丸が日本の太陽神・天照(あまてらす)大神(おおみかみ)の象徴だからだという。そして、日本の太陽神・天照大神は、イエスが起源である可能性がある。どちらも、横穴式の洞穴(墓)に隠れ(葬られ)、大きな岩戸を開いて復活した。天照大神がまつられる地「伊勢(イセ)」の名は、「イエス」との関連が想像できる。更に、伊勢神宮の境内に沿って流れる五十(いす)鈴(ず)川は、イエズス川なのだ(自動車メーカーいすゞは、イエス様ブランドということになる!)。
 また、東洋に福音を宣教した「景教」(キリスト教の一派)の旗は、イエスの象徴である太陽の上に、聖書と十字架をデザインしたものとなっている(「景」とは、日の光の意味)。マラキ書3章20節には、「わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」(新共同訳)とある。「義の太陽」とは、やがて登場するイエスの預言なのだ。イエスこそ、「世の光」、「義の太陽」であり、キリストを意味する太陽(日の丸)が、日本の国旗となっていることは偶然ではなく、日本がキリストの国となるようにとの、神の期待と摂理があるのではないか。
 「君が代」の歌詞は、10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つであり、もともとは天皇制とは無関係である。更に、「君が代」をヘブル語の発音で読んでみると以下のようになるという。「立ち上がる シオンの民 神の選民 残りの民 人類の救い 人類が救われ、神の預言が成就した 人類に救いが訪れ、神の預言が成就した。全地あまねく宣べ伝えよ」。つまり、「立ち上がれ!神を讃めよ!神の選民であるシオンの民は、選民として喜べ!人類に救いが訪れ、神の預言が成就した。全地あまねく宣べ伝えよ!」ということなのだ。かつて「君が代」は、日本の讃美歌にも載っていた(明治22年から昭和6年まで―「便宜上ここに収む、本書の歌にあらず」との断り書きあり―)。国の政策に従ってのことのようであるが、「君が代」に、イエス様を宣べ伝えよという意味もあるのだから、クリスチャンたちこそ、同胞の救いを願いながら、「国歌」を歌うべきなのだ。


御翼2012年7月号その4より

 

このメッセージは、御翼(礼拝メッセージ)から実例の部分を抜粋したものです。
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