2019年御翼12月号その3

         

夫婦論 三浦綾子(1922‐1999)

 三浦綾子さんと夫の光世さんは、仲の良い夫婦だった。特に、三浦綾子さんは、塩狩峠からは、健康が優れないせいで自分ではペンをもてない。口頭で文章を述べ、それを光世さんが書き取るという作業を続けられる姿は仲の良い二人の象徴的な姿である。
 「一体であるということは、いつも実感しています。一緒に仕事をする同士と言えば一番良いのでしょう。お互いの弱さをカバーし合うというのは、どこの家庭でも同じだと思います。神の備えによって、そのような生活が与えられているということだと思います。特に私がカバーしたということではなくて、カバーされていることもたくさんあるわけですから」と夫の光世さんは言う。また、綾子さんは、罪の赦しについて、以下のように語った。「…このどうしようもない罪は、神様が赦しくださるとわかって、それ以外に、この罪の消しようがない。私たちの持っている罪を、神は代わって負ってくださる。(それで)私たちの持っていた罪は何にもなくなる。これを負って神様は十字架に掛けられて、そして私たちの罪は赦された。実際にはまだあるはずの罪が、無いのと同様に見てくださる。これが赦しだと聞いたとき、人間はこれ以外に赦されようがないな、ってそう思いました」
 そんな、謙遜な信仰を持つ二人である。ところが、綾子さんご本人は、欠点だらけの二人がどうして仲よくやってこられたのかよくわからないという。光世さんは誠実だが短気でいらだちやすい。綾子さんはわがままで、行儀が悪く、家事は下手である。 三浦綾子さんは、「夫婦論」として以下のように記している。一つ考えられるのは、夫婦が共通の生きる目的をもっていると仲がいいと言える。共にキリストを信じ、神中心の生活をしたい。これが二人の人生における目的なのだ。…しかし、神中心の生活をしたいと目標をもっていても、それはなかなか実行できない。新約聖書エペソ5章には、「妻たる者よ。主(キリスト)に仕えるように自分の夫に仕えなさい」と書かれている。また、男性は更にたいへんなみ言葉が与えられている。「キリストがご自身をささげられたように」とは、キリストが十字架にかかられたように、妻のために命をささげよということなのだ。「愛する」とは命を相手にあげることなのだ。それほど真剣なことなのだ。「好き」などという甘っちょろいものではない。わたしたちのうち、何人が、このエペソ5章のみ言葉に従い得るであろう。「夫にはキリストのごとく従え」「妻には命をささげよ」おそらく、それに従い得る夫婦はほとんどいないにちがいない。従い得なくても、結婚とは、命がけの生活なのだということを、わたしたちは知らねばならない。その時に初めて私たちは、自分が夫または妻と呼ばれる資格のないことを知り、謙遜になる。
 もし、わたしたち夫婦が、仲がよいとすれば、エペソ書のみならず、聖書の言葉を曲りなりにも本気で重んじようとしている姿勢があるためかもしれない。神のみ言葉に照らされると、自分のみにくさが、はっきりとわかる。そして、こんなわたしをも十字架のキリストは許してくださっている。許されているのだから、許し合わなければと、不承不承でも許し合って、仲良くみえるということになるらしいのである。 

三浦綾子『忘れてはならぬもの』(日本キリスト教団出版局)


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