2020年御翼1月号その4

         

キリストが形造られていた「雨ニモマケズ」のモデル・斎藤宗次郎

 宮沢賢治(一八九六-一九三三 詩人・童話作家)は、岩手県花巻で生まれ、大正から昭和の初めにかけて活躍した。農学校の教師を務めながら創作活動をし、37歳で亡くなった後、多くの原稿が発見され、高く評価されるようになった。
 賢治は新しいものを積極的に取り入れる人物だった。例えば、賢治は農家に化学肥料の使い方を教えようとして、理解されずにいた。それが「雨ニモマケズ」の、「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ」という表現になったのであろう。また、オルガンやチェロを演奏する音楽家でもあり、ジャズのレコードをよく聴いていた。日本で「ジャズ」という言葉が一般的になってきたのは昭和初期、「モボ・モガ(モダンボーイ、モダンガール)」時代あたりからといわれている。しかしその数年前、賢治はすでにジャズを知っていた。『銀河鉄道の夜』のイラストには、よくSLが描かれるが、作品の中に「この汽車石炭をたいてゐないねえ」とあることから、モデルとなった鉄道はSLではなく、東北で初めて走った電車(花巻電鉄の路面電車)だったと考えられている。
 賢治の詩「雨ニモマケズ」は、彼が尊敬していたキリスト者・斎藤宗次郎がモデルになっていたと、クリスチャンたちの間では考えられている。仏教徒だった賢治であったが、良いものと信じたならば、新しいものをどんどん取り入れる人であったので、キリストの教えも積極的に取り入れたとしても不思議ではない。
 「雨ニモマケズ」は、賢治の没後発見された手帳にメモされていた。そこには「雨ニモマケズ」の最後の部分に続くように、「…南無妙法蓮華経/なむみょうほうれんげきょう…」と、題目が書かれている。そのため、日蓮宗を貫いた賢治だから、「雨ニモマケズ」は法華経(大乗仏教の代表的な経典)の常(じょう)不軽(ふきょう)菩薩(ぼさつ)のことをうたっていると解釈される。常不軽菩薩は、法華経に登場する菩薩で、釈迦の前世の姿と言われ、迫害されても仕返しをしなかった。この人物像は、聖書からの影響を強く感じる。そして、賢治の身近で激しい迫害に遭ってきた人物と言えば、クリスチャンの斎藤宗次郎である。賢治はそんな斎藤の姿の中に「常不軽菩薩」を見ていたのだろう。つまり、賢治の中では法華経と聖書とは何の矛盾もなく共存していたと思われるのだ。
 以下は、一九一三年、斎藤が自分のことを「一労働活動の姿」として日記に綴ったものである
 夏シャツ、夏ズボンをまとい、泥濘(ぬかるみ)の道路を東西南北に疾駆して、新聞を配達する青年がある。キリストのために働いているものと知っている。しばしばキリストを思うては、顔に莞(かん)爾(じ)[笑み]の漣波(さざなみ)をたたえる。手にも足にも英気はみなぎっている。路上の人々を見て、それぞれに教訓を学ぶ。かつ彼らを尊敬する。愛撫する。同情する。そして購読者に対して、一種和親をもってするの心をもって接する。新たに配達を乞う者あれば、主の御導きを感謝する。事情のために購読中止を乞う者あれば、また神意によるものとして快諾する。南街を走り尽くして残(ざん)壕(ごう)の峠小径(こみち)を登るや、足をとめて神に祈祷を捧げる。晴れた秋日和などには、左右の枯葉の蔭(かげ)に、細き虫の音は彼に慰安の音ずれを通じる。かくの如(ごと)き労働は死に至るまで連続するも、倦(う)むことを知らぬであろう。一歩、一歩は、それだけ天国に近付く確信と希望となって、はじめて真の勇気と歓喜とはあるのである。   
 これが書かれたのは賢治が盛岡中学校五年の時であり、日記に記されたものなので、賢治が見ることはなかったであろう。しかし、同じようなことを斎藤が賢治に話して伝え、それが「雨ニモマケズ」の作品作りに結びついたと考えることはできる。いずれにしても斎藤は「一労働活動の姿」を書く前の一九〇九年に、長女の愛子を亡くし、一二年には妻スエが他界している。それでも斎藤はいつも微笑み、人を助けようとしている。それは、斎藤の中にキリストが形造られているからであり、その原動力は、「一歩、一歩、天国に近付く確信と希望」だったのである。

雜賀信行『宮沢賢治とクリスチャン 花巻編』(雜賀編集工房)


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