2022年御翼10月号その3

 

競争社会の呪縛―― 片柳弘史神父

 以下は、カトリックの神父・片柳弘史『何を信じて生きるのか』(PHP)からである。求道中の学生との対話という形式で書かれている。
学生 ぼくよりずっと頭がよかったり、人づきあいがうまかったり、ハンサムで女性にもてたりする人たちと自分を比べて、「こんな自分ではダメだ」とつい思ってしまうのです。
神父 人間は、いつの時代にも互いに競争し、競争に勝ったものは優れている、負けたものは劣っていると考える、いわゆる[競争社会の論理]に取り込まれてゆくもののようです。どの命も世界でたった一つ、かけがえのないものなのですから、価値を競う必要などないのに。
学生 あなたはそんなことをいいますが、現実の社会は競争に勝たなければ、生き残ることはできないのです。
神父 有能な人、成功して富や名誉を手に入れた人には価値があり、そうでない人には価値がないというような考え方は、一般的かもしれません。問題は、その考え方がわたしたちを幸せにしてくれるかどうかです。たとえば、「自分はいい大学を出て、一流企業に入った有能な人間だ。だから、愛されて当然だ」と思っている人がいたとしましょう。そのような人は、リストラなどで思いがけず会社を首になってしまった場合、「自分はダメな人間だ。もう愛される価値がない」と思い込んでしまうでしょう。競争社会の価値観に潰かって生きていると、「あなたがあなただというだけで、あなたには愛される価値がある」という真実の愛を信じられなくなってしまうのです。それが、競争社会の価値観の一番恐ろしいところだと思います。キリスト教では、何かができるできないにかかわらず、すべての人に愛される価値があると考えています。なぜか、おわかりになりますか。
学生 「すべてのものは神によって造られた。神によって造られた以上、存在するだけで価値がある」という考え方でしょう。ぼくには、それは間違った考え方のように思えます。なぜなら、それでは人間は努力しなくなるからです。「いまのままの自分でいいや」と思ってしまえば、何も努力しなくなるでしょう。
神父 もちろん、問題点に目をつぶって、甘やかすのはよくないでしょう。わたしがいっているのは、「愛されるために、いまの自分と違った者になる必要はない。ありのままの自分を受け入れてくれる人がいる」と信じることの大切さなのです。そう信じられるからこそ、わたしたちは頑張れるのではないでしょうか。
 たとえば、「いまのままのお前ではダメだ。もっと優秀な人間にならなければ、お前なんか必要ない」と親からいわれたら、子どもは頑張ろうと思うでしょうか。親から愛されたい一心で、しばらくのあいだは頑張れる子もいるでしょう。しかし、そんな子でも、おそらくどこかの段階で力尽きて「ぼくはダメな人間なんだ。愛される価値がない」と思って努力しなくなるだろうと思います。あるがままの自分を愛してくれない親を、怨(うら)むようにさえなるかもしれません。
 何かあっても、自分を見捨てずに受け入れてくれる人がいる。自分が自分だというだけで愛してくれる人がいる。それこそが、頑張る力の土台になるとわたしは考えています。
わたしは幼稚園で保護者のみなさんに、「愛されるために頑張る子どもではなく、愛されているから頑張れる子どもを育てましょう」といいます。愛されるために頑張るのも、愛されているから頑張るのも、頑張るのは同じ。ですが、努力の結果、どんな子どもになるかに違いが生まれてくるのです。「これができなければ愛されない」と恐怖心に駆られて頑張った子どもは、それがうまくできるようになったとき、「わたしはこれができる。愛されて当然だ」と思うようになるでしょう。「できる自分は、できない人たちより優れている」とさえ思うようになるかもしれません。それでは、先日お話しした競争社会の論理にはまってしまうのです。
学生 なるほど、勉強ができるから自分は特別な人間だ。他の人間よりも価値があると思い込んで、周りを見下すようになるということですね。
神父 そうです。残念ながら、そのような考え方をしている限り、心の底から幸せを感じることはできないでしょう。それは、無条件の愛を拒むのと同じことだからです。逆に、愛されている実感を土台として頑張る子どもたちは、できるようになったとき、まだできない子たちを励ましたり、手助けしてあげたりすることが多いように思います。親や先生たちが注いだ愛がその子の心を満たし、その子の心を満たした愛が、その子から周りの子どもたちに向かってあふれ出してゆく。そんな感じです。
学生 キリスト教は、人を甘やかしてやる気を失わせる宗教かと思いましたが、逆に、その人の頑張りを引き出すという側面もあるのですね。


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