2022年御翼10月号その4

 

仏教からクリスチャンへ―― 亀谷凌雲(りょううん)先生

 日本で最も仏教が盛んな越中富山の一寺院の長男に生まれた亀谷凌雲(りょううん)先生は、少年の頃から蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)(浄土真宗の僧)や釈迦如来(仏教の開祖)のような大宗教家となって人類のためにぜひ働きたいという理想を抱いていた。しかし高校に入ってからだんだんと愚かな罪深い自分の真価がわかって来て、非常に悲観し、死にたいと思うようになった。仏教はこういう自分のような者に対して、安心の道を開いてくれるのではないかと思い、真剣に信仰の問題に心を寄せるようになったという。その後、東京大学の哲学科(宗教専攻)を卒業するが、どうしても阿弥陀如来(極楽浄土を開いたとされる教主)がはっきりわからず、宗教学で学んだ聖書の方が深く心にしみこんできた。
 亀谷氏の心をとらえたのは、バンヤン、ルーテル、アウグスチヌスなどの昔のクリスチャン達や、使徒パウロであった。山室軍平の説教は、ひと言ひと言が金言として聞こえたという。キリストは氏の心を惹き付けるが、これまでの阿弥陀の教えをたやすくは捨てられない。キリストを信じようか、阿弥陀を信じようか迷い悩み、いっそのこと両者一体であると主張する一新興宗教を開こうかとも思ったという。
 そのうち故郷の母校、富山中学校へ転任することになった。郷里の教育に尽くすことはかねてよりの念願だったが、このままでは学校へ出られないような気がして、一大決心が必要となった。富山に帰ると、亀谷氏を寺の住職にするという辞令が本山から来た。しかし、氏はクリスチャンになることに決めていた。その理由は、阿弥陀が人間の救いのために長い時間、心を集中して仏として完成させたという修行(五劫思(ごこうし)惟(ゆい)永劫(ようごう))は、歴史的事実ではなく、いくら心に言い聞かせても本当に信じられない。うわべは信じたような姿はでき、阿弥陀の本願の話もでき、これまで覚えたことをいくらでも言うことはできても、それが作りごととしか思えないのだ。
 仏教の教えは尊いが、これは釈迦という一人の人間が悟った教えで、阿弥陀の本願は人々を救う方便(人を真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段)でしかないからである。ところがキリストの教えは方便を用いていない。キリストが世界中の人を救うために十字架の上で死なれた愛は、文字通りの事実なのだ。キリストの生き生きした言行を見ると、これはとても人間の言動ではなく、キリストは神であるという事実がはっきりして来た。このように亀谷氏は確信するに至り、牧師となったのだった。


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