2022年御翼9月号その1

 

霊感を与えられて作曲したドヴォルザーク

 チェコの作曲家アントニン・ドヴォルザークは大の鉄道好きで、交響曲第9番の最終4楽章の始まりが、蒸気機関車が発車するときの音に似ていることは有名である。プラハに住んでいる時、ドヴォルザークは作曲に行き詰まると駅に出かけた。列車を眺めたり、車掌や駅員と話したりしてくると、気分一新して作曲に取り掛かったという。また、鉄道関係者でもないのに、遅延した列車の乗客に駅で謝罪していたとか、乗車中に列車の音がいつもと違うことに気づいて車掌に連絡し、故障による大事故を未然に防いだともいわれる。現代日本では、鉄道ファンを、乗車目的とする「乗り鉄」、列車写真を趣味とする「撮(と)り鉄」、鉄道の音を収集する「録(と)り鉄」、車両を研究する「車両鉄」、駅が好きな「駅鉄」、時刻表を好む「時刻表鉄」などと呼んだりするが、ドヴォルザークはほとんどすべてを網羅していた。新大陸アメリカのニューヨークの音楽院院長職を受けたのも、発展著しいアメリカの鉄道を間近で見られるからという動機も入っていたと言われる。
 「列車が自分のものになるなら、今まで作曲した全作品と交換してもよい」というぐらい鉄道趣味に没頭したドヴォルザークであるが、素朴で慎ましい気質を持っていた。妻と多くの子どもを大切にし、作曲中でも家族との団欒(だんらん)をじっくりと味わった。一人で書斎に閉じこもらず、よく台所のテーブルで仕事をした。オーブンで焼かれるパンの香りに包まれ、家中を駆け回る子どもたちの物音に囲まれながら、彼は最良の作品を幾つか仕上げたのである。子どもたちは、ドヴォルザークが厳粛な作品に取り組んでいる最中でも、いつでも仕事場に入り込んで構わなかったという。
 ドヴォルザークは生涯を通して、品性、高い倫理感、それに大いなる信仰の面で評判を保った。ボヘミアのカトリック教会に出席していたドヴォルザークの神との関係は、常に畏敬に満ち、個人的なものであり、彼は自分の卓越した才能を「神の贈り物」あるいは「神の声」と呼んでいた。聖書を読むのが大好きで、彼の手紙は信仰的な言葉に満ちており、手稿(しゅこう)譜(ふ)は常に「神と共に」という書き付けで始まり、「神よ、感謝します」という祝福で終わっていた。旅行に出かけた時は子どもたちに手紙を書き、よく教会に行って「熱心に祈る」よう励ましを与えている。
彼は自分の並外れた作曲手腕を、神に霊感を与えられたものと見なし、「ただ神のおっしゃることをするだけだ」と主張していた。ドヴォルザークの宗教曲は、敬虔な魂を持つ人物像をあらわにしており、実生活も、成功や名声で飾られた羽振りの良い暮らしに染まったものではなかった。ドヴォルザークは、富による贅沢よりも、良き友に喜びを覚え、深く人間を愛する人物だった。音楽の才能は神からの贈り物であると神に感謝していた、謙遜で柔和な人だったからこそ、神からの賜物、聖霊を受けて、ボヘミア(現チェコ)の音楽史上最大の作曲家となったのだった。
 交響曲第9番「新世界より」の第2楽章ラルゴのテーマに、ドヴォルザークの弟子フィッシャーが歌詞をつけたのが「ゴーイング・ホーム」である。ドヴォルザークは黒人霊歌に影響を受けて、人の魂が懐かしく思う故郷、即ち天国を待ち焦がれるメロディーを作ったのである。日本では、「遠き山に日は落ちて」という歌詞の「家路」として知られているが、フィッシャーが書いた詩は、天国への憧れであった。  P.カヴァノー『大作曲家の信仰と音楽』(教文館)より

ゴーイング・ホーム  
原曲:ドヴォルザーク「新世界より」
作詞:ウィリアム・アームス・フィッシャー

ゴーイング・ホーム、ゴーイング・ホーム
僕は家に帰る 静かな、いつかの日のように 僕は家に帰る
遠くなんかない、直ぐそこなんだ 開かれた扉を通って
成すべきことは終え もう心配も恐れもない
母さんが僕のことを待っていて 父さんも待ちわびている
そこにはたくさんの顔が集まる 皆僕の知っている友達だ
僕は、家に帰るだけなんだ
もう恐れも、痛みもない 途中でつまずくこともない
その日を待ちこがれる必要もない もう走らなくてもいいのだ

夜明けの星が行く手を照らし 終わりのない夢から覚める
闇は去り、夜が明ける 本当の命が始まった
中断もなく、終わりもない 生き続けるだけだ
微笑みと共に、すっかり目覚め ずっとずっと続く


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