以下は、丸屋真也『御霊に属する人、肉に属する人』(いのちのことば社)からの抜粋である。
クリスチャンとして、隣人を愛さなければと思っているのに妬みや怒りを感じたと き、どうすべきだろうか。自分の力に頼る人と、謙遜に悔い改める人も、罪を犯してし まうことは同じである。ただ、そういうときに示す反応が大きく違うのだ。
自分の力に頼ろうとする人は、こういうときに、まず反省する。「ああ、神様、私は 本当にだめです。あなたから隣人を愛しなさいと言われているのに、つい憎んでしまい ました。どうぞ、赦してください。これからは、決して怒りや憎しみを抱かないように します。あの人にもっと仕えることができるように助けてください」と祈る。これは、 「神様、助けてください」と祈っているから、自分の頭の中では「イエス・キリストに よって」歩んでいると考えている。ところが心の深いところでは、自分自身が作った「次 はあの人にもっと愛を示さなければいけない」というルールに従わないといけないと 思っているのだから、実は律法に従っているのだ。
一方、悔い改めを知っている人は、「私は愛したいと思っている相手に怒りと憎しみ を感じてしまう。でも、そういう自分を神様は、イエス様を十字架にかけてまで赦して くださったんだ。そんなにまで愛してくださって、本当に感謝します」と、神の恵みに 立つのだ。そうすると、神の愛に圧倒されることになる。そうなると、次にその人に 会ったときには、自分のことをこんなにまで愛してくださっている神の愛に根ざして、 その人にかかわりたいと思って祈るようになる。これは、自分の力に頼っている人と目 標は同じであっても、動機がまったく違う。罪悪感や不安による「もっと愛さなければ」 という動機からではなく、自分を愛してくださる神の愛を体験することによってそうし ようと思うのだ。この差は、信仰を実践する上で一番大事なことである。
真の悔い改めを知っている人は、どれだけ失敗しても、神様の赦しと愛は変わらないことを知っている。すると神様は、相手の人のことも同じように赦し、愛していらっしゃることがわかる。このように、どこまでも愛と赦しと恵みの中に生きていくときに、神様の愛に押し出されるようにして、自分ではない新しい自分がそこに現れてくる。これが成長なのだ。人は、今の自分が、行いによってではなく、イエス・キリストの十字架と復活によって百パーセント神に受け入れられ、義とされていることを受け入れるそのときに、心と魂は神の愛に満たされる。 御翼2023年6月号その4掲載