カリフォルニア神学大学院
日本校

聖書を正典的に解釈し、現代人にわかりやすく話せる説教者を養成する神学校です。

学生・卒業生の声

S宣教師(三重県・男性)

 神学の学びをしたいと祈った直後、本校のパンフレットが送られてきた。迷わずに、入学を決意した。ただ、資格の問題で逡巡したところ、学長先生が快く受け入れてくださった。そのことを、何よりもまず感謝している。
 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ2:13)。この志は、主が与えてくださったとわかる。思えば、60歳までの長い道のりであった。しかし、主は私たちひとり一人に志を与えてくださっているとわかった。
 3年間、よく続けられたと我ながら感心している。それは、何よりも学びが楽しかったからだ。説教演習と説教組立は、実用的でいつもわくわくさせられた。学長の魅力が大きかったことが大きかった。説教に対する命がけの姿勢を学ぶことができた。
  福音は変わらない。しかし、伝え方、工夫、努力が違うだけなのだ。ここで学んだスピリットで日々の研鑽を死ぬまで続けて行きたい。神学生を、増やしてください、と祈った祈りに、主が答えてくださっている。これからも、もっともっと学ぶ人が増えることを待望したい。

T牧師(大阪府・男性)

 宣教・牧会の現場に出て約6年、私は説教のことで行き詰っていました。 そうした中でこの神学校との出会いがあり、学ばせて頂くことにしました。
  他の神学校では説教実習の回数が限られており、聖書解釈の発表会のような感じで行われます。 これで卒業し、いざ教会の現場に赴くと、殆ど何の訓練を受けないまま説教をしなければなりません。場数を踏めばそのうちできるようになると思いましたが、現実はそう甘くありませんでした。 これに対し、この神学校では毎週3分間の説教実習で訓練を受け、また説教組立や実例の用い方など、実践的な説教を学ぶことができます。
 ここで学び始めて半年、実例を用いることによって信徒から「最近、説教が良くなってきた」、また聖書研究会でも「分かりやすい」と言われるようになりました。 また、毎週の説教で伝えたいことが明確になってきました。
 説教で悩んでいる方は多いと思われますが、ぜひ門を叩いてみることをお勧め致します。

S牧師(静岡県・女性)

 みことば(IIテモテ2・15「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、 恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努 めなさい」)に押し出されて、導かれたのが当神学校でした。
  学びはなんと楽しく有意義であったことかと今でも深く思います。 とても 印象深いのは、毎回みことばが一節与えられ、そこから3分間メッセージ をすることです。「導入」「聖書解釈」「例話」「結び」を起承転結に合わせて3分以内に語ることは、良い訓練になりました。 日常のことに心を向け、聖書の基本をしっかり身に付け、みことばに生きる幸いを語るということ、 メッセージをする者にとって、この基本を徹底的に知らされます。
 又、「正典的聖書解釈」に基づく学び、聖書への新しいアプローチの授業、 教師や学友との交わり、どれ一つとっても興味深く、聖書理解にも幅が与えられました。
 牧会者として、伝道者として、あるいはクリスチャン教育者として、スキルアップできる切っ掛けを与えてくれることは間違いないと実感しました。

聖戦とキリスト (卒業生・淵江淳一博士の論文より)

 佐藤陽二師は、旧約聖書の「聖戦」思想を説明して次のように言う。「主がモーセに命じられたように……みな殺した」(民数記31:5)とあるのは、どのように読み、また解釈したらよいのであろうか。 結論から言うならば、モーセあるいは民数記の記者、または編集者が、神の、み心であると考えた、ということである。
 同じ旧約聖書でも、エゼキエル書18 : 23は、「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。 むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか」と言って、聖戦思想を否定している。
 イエス・キリストは、「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(マタイ26 : 52)と教えられた。また「敵を愛し、憎む者に親切にせよ」(ルカ6 : 27)とある。 さらに、人間の守るべき絶対的律法は、「心をつくし、精神をつくし、 力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」ということと、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」の二つである(ルカ10 : 27、申命記6 : 5)。これは、旧約聖書と新約聖書とを通して、変わることない神のみ心であった。 次に使徒パウロは、「自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさい」(ローマ 12 :19)と語っている。このようにして、旧約聖書の「ことごとく滅ぼす」という言葉は、イスラエルが他の民族に対して、そうすることが、「神の、み心である」と旧約聖書の記者たちが、誤って受けとめたものであったことがわかるのである。
 このことは、旧約聖書が誤りであるという意味ではない。 それは弱点の多い人間を用いて、神は救済の歴史を完成へ向かって進めておられるということである(佐藤陽二『民数記』p.153)。このことが正しく受けとめられずに、後の教会もたとえば十字軍など繰出したのは他に理由があったとしても、やはり聖戦の思想があったからであって、いつもキリスト中心に見るべきである。

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