ニュースレター62号P1~2より抜粋
みことばに生かされた女性たち~NHKドラマ3人の主人公
※2017年牛込キリスト教会婦人の会/JWCTU牛込支部クリスマス礼拝メッセージより (12/13)
矯風会JWCTU会長 荒川 明子
ともに歩んでくださるお方イエス
作家の遠藤周作がカトリック信者の視点からたくさんの作品を残し、多くの文学賞を受賞していることはよく知られています。その中のひとつ『沈黙』は2016年に映画が公開され、評判になりました。小説だけではなくキリスト教信仰に関する評論も残していますが、遠藤周作の信仰に一貫して流れているのは、貧しい者、病気の者など、いわゆる社会的弱者とともに歩み、労苦してくださる「同労者イエス」です。両親の離婚、父親との確執、度重なる受験の失敗、そして、留学先のフランスで肺結核を発病して留学半ばで帰国し、入院して生死の境をさまよい、生涯病弱な身体だったこと。どれほどの挫折を味わったことかと思います。孤独と不安の中にある周作にとってイエスは、いつも自分とともに歩み、生きる指針を示してくださるお方であったのです。
皆様方にとってイエスはどのようなお方でしょうか。昨年私は妹をわずか1か月足らずの入院で天に送りました。もう手立てがないとお医者様に宣告されて呆然とする私を支えたのは、妹の所属する教会の牧師夫人と分かち合った、苦難のしもべの誕生を預言するイザヤ書53章3節の「彼は、悲しみの人で病を知っていた」というみことばでした。混乱し悲しむ私と地上を去りゆく妹のすぐそばに、全てをご存じのイエスはいてくださり、一緒に痛み悲しみを負ってくださっていることを思い、慰めをいただくことができました。イザヤは3節に続いて4節でも、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」と続けます。そして、53章は、「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」という、贖い主であるイエスの誕生を伝えるみことばでしめくくられます。
他者のために力を尽くした新島八重
2013年大河ドラマ「八重の桜」の新島八重、2014年上半期朝の連続ドラマ「花子とアン」の村岡花子、2015年下半期朝の連続ドラマ「あさが来た」の広岡浅子の3人の主人公はともにクリスチャンでした。1845(弘化2)年、八重が誕生した山本家は会津藩の砲術師範の家柄でした。家の北側に有名な「日新館」があり、「ならぬことはならぬものです」に集約される「什の教え」を八重も身に着けていたに違いありません。夫の新島襄は八重より先に兄の山本覚馬と意気投合し、2人は同志社大学の設立にも協力して力を尽くしました。襄は、八重について、「彼女は決して美人ではありません。しかし、私が彼女について知っているのは、美しい行いをする人だということです。私にはそれで十分です」と知り合いに書き送っています。「ジョー」「八重さん」と呼び合い、洋装で大きな帽子をかぶって夫婦並んで歩く姿は日本の伝統的な夫婦の在り方と違っていると、八重は同志社の学生たちに評判が悪かったそうです。襄と写真に写る八重は着物の膝に帽子を載せて、靴を履いています。
襄の死後、八重は、日本キリスト教婦人矯風会の活動にも協力し、運動の甲斐あって婦人の衆議院傍聴禁止が撤廃されたあとすぐに、矯風会の佐々城豊寿と一緒に衆議院に傍聴に行っています。また、日本赤十字社の社員となった八重は、日清戦争、日露戦争では、篤志看護婦として、大勢の若い看護婦の監督として従軍しました。 「神のよき友となれ」(①)、「心和得天真」(②)(心和すれば天真を得る)(左が八重、右の太い字が新島襄のもの。「心を穏やかにすれば神のみこころを知ることができる」という意味)、「クリストのこころをもて心とせよ」(③)などの書を残しています。 八重は、鳥羽伏見の戦いで弟を失い、最初の夫の川崎尚之助は会津戦争の後に離ればなれになり、その後尚之助は病死しました。さらに44歳のときには二度目の夫である新島襄を失いました。まことに悲しみの多い人生でありました。その八重の支えとなったのは、自分に与えられている賜物を生かして、自分らしく、神に示された道を歩むことでした。実子はいませんが、同志社の学生たちをかわいがり、戦争が始まると従軍看護婦として傷病兵を親身になって世話し、慰め励ましました。夫である新島襄の遺言を実践して、他者のために祈り続けた人生ですが、特に女性がどのように社会に対して役割を果たしていくかに関心をもち、人の力の及ばないことは神の御手に委ねて、ただただ祈りつつ行動しました。それも教会で祈ることを大切にしたといいます。
前途ある若者を育てた広岡浅子
「あさが来た」の主人公広岡浅子は、八重より4年遅れて1849(嘉永2)年、京都の三井一族の三井高益の四女として生まれ、お嬢様として育てられました。17歳で大阪の大きな両替商加島屋の次男広岡信五郎と結婚しましたが、浅子は、のんびり屋で趣味に生きる夫に代わって、石炭業に進出し、加島銀行、大同生命を設立し、日本初の女子大である日本女子大学の開校にも貢献しました。テレビドラマでは、夫と理解し合って仕事に励む生活が生き生きと描かれていましたが、実際は浅子が難産の末に産んだのは長女の亀子1人で、夫の信五郎は浅子が嫁入りするときに付き添ってきたムメという婦人に1男3女の子どもを産ませています。浅子は彼らを家族として扱い、ムメの産んだ子どもたちも亀子と同じようにかわいがったそうです。 浅子とキリスト教との出会いは、日本女子大設立のためにともに労苦した成瀬仁蔵を通してです。成瀬はキリスト教の牧師として牧会の傍ら、アメリカ留学の経験を通してこれまでの良妻賢母を育てる教育とは一線を画す女子教育の必要性を感じて日本女子大を設立し、校長を務めました。浅子も日本女子大設立におおいに貢献しました。60歳のとき乳がんの手術を受けて目覚めたときの心境を、「私はこの時、『天はなほ何かをせよと自分に命を貸したのであらう』と感じて、嬉しいと云ふよりは非常に責任の重いことを悟りました」と記しています。成瀬牧師は、大阪基督教会の宮川経輝牧師に浅子の導きを委ねました。宮川牧師は同志社で新島襄の薫陶を受けた同志社第1期卒業生です。宮川牧師の教えを受け、聖書を読み、「わが身の傲慢なことが解り、今迄の生涯が、恥ずかしくも馬鹿らしくも思はれ、…」浅子は教会に通うようになりますが、説教で語られる「罪」のことに反発を覚え、なかなか神に従う決心がつきませんでした。その浅子の背中を押したのは、浅子が参加した日本基督教女子青年会(日本YWCA)の修養会で講師を務めた救世軍士官の山室軍平でした。山室軍平は新島襄を通して新島八重とも交流がありました。1911年のクリスマスに浅子は日本基督教団・大阪教会で宮川牧師より洗礼を受けました。満62歳でした。
クリスチャンになった浅子は、1919年、亡くなる3日前に訪ねた山室軍平に、「自分の一生は九転十起の人生であった」と語っています。洗礼を受けてからは自力で奮闘する生き方から全く新しくされ、神に委ねた人生を送りました。熱心に伝道活動に励み、YWCAを支援し、矯風会の活動にも参加しました。「広岡浅子」という名前は『矯風会 百年史』のあちこちに記されています。山室軍平によると、浅子が最も愛した聖書のことばは、「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです」というヨハネの手紙第一3章2節だったということです。浅子は1914年から亡くなる前年の1918年まで、日本女子大の卒業生を中心に20人ほどの女性を招いて御殿場の別荘で夏期勉強会をもっていました。「女性たちに、社会を変えていく実力を身に着けてほしい」と前途ある若者に対する教育に熱心に取り組んだのです。浅子の隣に23歳の村岡花子が写った写真もあります。クリスチャンとなっていた浅子はこの女性たちに「自分ひとりが偉くなるのではなく、日本女性全体の地位をあげることを考えてほしい。小さな自分にこだわるのではなく、大きな世界で自分の成すべき本当の使命を見つけてほしい」と語ったそうです。
悲しみの中で使命を見つけた村岡花子
『赤毛のアン』シリーズの翻訳者として知られる村岡花子は1893(明治26)年甲府市で生まれ「はな」と名づけられました。2歳のとき洗礼をうけています。クリスチャンであった父の安中逸平はつてを頼ってはなを東京の東洋英和女学校で学ばせました。東洋英和女学校の教師の多くは、カナダのメソジスト教会本部から派遣された宣教師たちでした。花子の抜群の英語力は、この東洋英和の宣教師たちによって育まれました。 1910(明治43)年、17歳のとき日本キリスト教婦人矯風会と出会い、会報誌「婦人新報」に短歌やエッセイなどを投稿し、やがて編集を担うようになり、1935(昭和10)年に退任するまで、実に25年の長きにわたって矯風会と関わりを持ち続けたのです。その中で多くのクリスチャン女性と交流を深めました。築地にある基督教興文協会という出版社に編集者として勤めていたとき、その出版社の社長の長男の村岡儆三と知り合い結婚し、「安中はな(花子)」から「村岡花子」となりました。 儆三には妻子がありましたが、別れて花子との結婚を選びました。しかし、幸せは長く続かず、一粒種の長男 道雄は疫痢で6歳の誕生日を前に天に召されました。「病気の妻と幼い子どもから離れた儆三と、彼らから儆三を奪った私とが、平安に生きることを神はお許しにならないのかもしれない」と、絶望に沈む花子に聞こえてきたみことばがありました。それは、「神はそのひとり子をお与えになるほどに世を愛された」というヨハネ3章16節のみことばでした。「神は愛するひとり子を救い主として世に送るほどに、人を愛された。」今まで何度も読んだこの聖書の1節が花子の胸に迫りました。そして、「神の定めた運命に従おう。自分の子どもは失ったけれど、日本の子どもたちのために上質の家庭小説を翻訳しよう」と、失意のどん底で、花子はみことばを通して、家庭小説の翻訳という使命を見いだしたのです。花子によって『王子と乞食』『赤毛のアン』シリーズ等多くの少年少女向けの小説が日本の子どもたちに届けられました。『王子と乞食』の本の巻頭には「わが幻の少年道雄に捧ぐ」と、亡きわが子への献辞が添えられています。1955年3度目の来日をしたヘレン・ケラーの富士見町教会での講演では通訳も務めました。花子の根底にあったのは、「キリスト教、英語、文学、社会改革の意識」の4つであったと、『アンのゆりかご』の著者である孫の村岡恵理さんは記しています。
この3人のクリスチャン女性たちに共通するものは何でしょうか。3人とも愛する者を失うなど、人生の悲しみや絶望を味わっています。八重は、鳥羽伏見の戦いでかわいがっていた弟三郎が戦死しました。また、最初の夫と添い遂げることができず、再婚した夫新島譲も46歳で召されます。花子も、ひとり息子の道雄を6歳で失います。浅子は、嫁入りに付き添ってきた女性が、ある日突然夫の妾となって子どもを産み、同じ家で暮らすことになりました。 また乳がんなど、病気にも悩まされます。 人生の歩みの中でキリストの救いを受け入れた時期はそれぞれですが、信仰によって新しくされて、神からいただいている使命に目覚め、一心に使命を果たすべく、主に従う人生を送ったということも共通しています。自分の名誉や富のためではなく、与えられた賜物を生かして神と人のために労苦したということです。特に女性の社会的な地位の向上のために、八重も浅子も花子も、ともに、私たち矯風会JWCTUの源流である日本キリスト教婦人矯風会の活動に携わっています。彼女たちは思い煩いの多い人生の中で、悩み悲しみを神に申し上げ、どれだけの祈りを捧げたことでしょうか。その中で神の御声を聞き取り、立ち上がって、主の道を力強く歩む力をいただいたに違いありません。 「私たちの病を負い、私たちの痛みをになって」、私たちを罪から解放してくださる御子イエス・キリストを世にお送りくださった神の御愛に感謝し、クリスマスをお祝いいたしましょう。 資料:『イエスの生涯』(遠藤周作著) 『新島八重ものがたり』(山下智子著) 『浅子と旅する。』(フォレストブックス編集部) 『アンのゆりかご』(村岡恵理著) 復刊『一週一信』(広岡浅子著)